横浜市立折本小学校創立35周年記念誌「わたしたちのまち」

第18話 独立した頃の折本小学校

 分校のままでは不便なことが多いので、地域の人々の願いやお力で、1950(昭和25)年4月1日、都田小学校から分かれて、折本小学校が独立しました。先生は8人で児童は200人ぐらい。1学年1クラスでそれぞれ30人ぐらいでしたが、その中には、疎開してきたお友達もいました。

桜の木の前で(35周年記念誌より)
桜の木の前で(35周年記念誌より)

 

 学校は坂道を登りきった周りが畑ばかりの丘の上にありました。今の西原公園のところです。木造平屋が二棟の古い小さな校舎でしたが、校庭の大きな桜の木が毎年見事に咲いて、入学する1年生を喜ばせていました。学校から眺めると、鶴見川を挟んで両側に田んぼが広がり、秋には金の絨毯を敷き詰めたようで、稲穂の波の音が聞こえてくるようでした。そして、その向こうには、小机の駅と周りの人家がかたまって見えました。赤土に砂利の混ざった坂道は、冬の朝は霜柱でうずまり、帰りは滑りやすく、とても危険でした。雪が降ると、道の両側にある竹に雪が覆いかぶさって通れなくなり、学校を休む人も沢山いました。

 午前10時、ミルクがアルミのコップに1人1杯ずつ配られました。でも、ジャリジャリしていて味も悪く、おいしくないので嫌われました。給食のおかずにする材料は児童たちが交代で家から持ち寄りました。薪を燃やして、おかまで作るのですから、薪も家から運んできました。1週間に1度だけ肉の入ったカレー汁が出ましたが、それが一番人気があって、その日が待ち遠しくて競争して食べました。この給食をたった1人のおばさんが作り続けていました。

 年に1回の学芸会や運動会は、児童ばかりでなく、家の人もとても楽しみにしていました。三つの教室の境は、それぞれ取り外しのできる木の戸で出来ていたので、それを取り払って一つの広い学芸会場を作りました。そして、そこに机を並べて、それを舞台にしました。家の人は、お芝居でも見るような気分で、涙を流しながら見ました。運動会も朝早くから、ゴザを持って家の人が集まり、にぎわいました。児童の人数が少ないので、家の人と一緒のプログラムが沢山あり、体育の時間と同じように、裸足になってかけたり、遊戯をしたりして楽しみました。井戸水をバケツにくんで、汚れた足を洗うときは、冷たくて心地よかったそうです。

  休み時間には、女の子は家の人が藁でなってくれた丈夫な縄で、縄跳びをしたり、形のよい石を道で見つけて、それを石蹴りにつかったりして遊びました。男の子は、小刀で小枝を切って自分のゴムパチンコを作り、どんぐりや小石などを挟んで飛ばす競争をしました。

 

 学校帰りの道草も楽しみの一つでした。近くの淡島神社の周りの山で、野いちごをとって、お菓子代わりに食べたり、さわがにをいっぱい取っこしたりして、なかなか家に帰りませんでした。途中、車が通るとうれしくて、「車がきた。」と大騒ぎしながら追いかけ、いつまでも見送っていました。まだ、車がほとんど通らなかったので、珍しくてたまらなかったのです。

 

 学校が誕生して3年目、二棟あった校舎の一棟を壊して、木造二階建てのりっぱな校舎が出来ました。出来上がるまでの1年間ぐらい、児童は、近くの淡島神社の神楽殿を教室代わりにして勉強しました。どろんこになって境内を走り回ったり、家からわらや古い材木を持ってきて、先生と一緒に竪穴式の丈夫な家を作りました。その中で遊んだ面白さは格別で、いつも中は満員でした。

新しく出来た2階建ての校舎(35周年記念誌より)
新しく出来た2階建ての校舎(35周年記念誌より)

 校旗の中に大きく刻まれている校章の野いばらは、暑さ寒さにも負けぬ強い花で、“希望”“潔白”の意味を表しています。そして、折本小のみなさんに沢山の歴史を語っています。

「横浜市立折本小学校創立35周年記念誌 わたしたちのまち」より

~「第18話 独立した頃の折本小学校」を読んで~

 ここでは都田小学校の分教場だった折本小学校が1950(昭和25)年4月に《独立》したことが書かれていますが、この時、我が国は《独立国》ではなく、マッカーサー連合国司令部(GHQ)の支配下で、政治的には極めて厳しい環境下にありました。

 

往時を偲ばせる西原公園の桜
往時を偲ばせる西原公園の桜

 

 ちなみに、正式に独立国として主権が回復したのは、翌1951(昭和26)年9月に調印したサンフランシスコ講和条約が発効した1952(昭和27)年4月以降になります。

 

 しかし、第17話にもあったような敗戦の痛手が生々しい『国破れて山河あり』の状態から、国全体が徐々に復興してきて明るい前途が期待できるようになった時期でもありました。

 

 そして、今の西原公園にあった折本小が昭和25年に独立してから、今の場所に移転する昭和50年までの4半世紀(25年間)に、我が国全体が右肩上がりの経済成長を遂げることになります。

折本町の高台より新横浜・小机方面を望む(よく見ると第三京浜・環状北線・日産スタジアムの屋根が・・・)
折本町の高台より新横浜・小机方面を望む(よく見ると第三京浜・環状北線・日産スタジアムの屋根が・・・)

 

 そのような時代背景と戦後の自由な雰囲気の下で、折本小の子供たちは、初めの頃はまだ食べ物や着るものも十分ではなかったでしょうが、良くない状態も徐々に改善されていき、この第18話に書かれているように晴れ晴れとした気持ちで、小学校での勉強や豊かな自然に囲まれた遊びを楽しんだことでしょう。

 

 話の中で、『学校から眺めると、鶴見川を挟んで両側に田んぼが広がり、秋には金の絨毯を敷き詰めたようで、稲穂の波の音が聞こえてくるようでした。そして、その向こうには、小机の駅と周りの人家がかたまって見えました』と書かれていたのは、とても印象的ですね。今は近辺の高台から眺めても写真のように大きな建物や高速道路しか見えません。

 このような時期に折本小学校に通われていた方は町内に多くおられますが、6組のYさんは懐かしい当時を振り返って、昭和33年頃に撮られた次の2枚の写真を提供してくださいました。

 

折本小の運動会(今の西原公園にて)_小机堰での「七夕の笹流し」

 

 1枚目の写真は、いかにも「戦後」を思わせる活発な女の子の組体操の様子です。2枚目の写真は、小机堰の木橋(ドンドン橋?)での恒例の七夕の笹流しだそうです。男女一緒で楽しそうですね。

 

 しかし、その後は全国の多くの地域でそうであったように、のどかな折本の地にも開発の大波が押し寄せてきます。その顕著なものが1965(昭和40)年に折本町を南北に跨ぐようにして建設された「第三京浜道路」の開通だったのでしょう。

 

 ただ小学校があった西原公園付近や淡島神社の周辺の景観は、折本小が移転する1975(昭和50)年頃までは以前のままであったようです。

 

 それが大きく変るのが、1983(昭和58)年に開通する新横浜元石川線の建設工事でした。この道路は西原公園と淡島神社の間を文字通り分断するように走り、その後折本町全体も急速に変貌を重ねて今の姿になったのは皆さんご承知のとおりです。

 

 本当に、目まぐるしい移り変わりでしたね!

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