横浜市立折本小学校創立35周年記念誌「わたしたちのまち」

第17話 戦争中の学校

淡島神社にある慰霊碑(35周年記念誌より)
淡島神社にある慰霊碑(35周年記念誌より)

 淡島神社に「慰霊碑」とかかれた石碑があります。それには戦争で死んだ人の名前が刻まれています。真照寺や長福寺にも戦争で死んだ人のお墓があります。戦争の頃には、どんなことがあったのでしょう。

 

 1941(昭和16)年、日本はアメリカ・イギリスなどの国と戦争を始めました。それまで中国とも10年余り戦争をしていました。

 

 1944(昭和19)年から戦争が終わる1945(昭和20)年まで、アメリカのB29爆撃機が日本中の町を空襲して、横浜の中心も焼け野原になってしまいました。大倉山(今の大倉山公園)には高射砲の陣地がありました。だから、そこを狙ってたくさんの爆弾が落とされました。折本・大熊にも焼夷弾が落とされました。

 

 学校で勉強中に空襲警報が鳴ると、子ども達は集団下校をしました。毎日のように空襲があったそうです。空中戦の様子が見え、アメリカの戦闘機が川向の鶴見川に落ちたこともあったそうです。

 

 その頃小学生だった斉藤英雄さんは、

 

「本当に空襲がひどくなってからは学校(都田の本校)に行かなかった。艦載機に機銃掃射されたこともある。体の脇を機関銃の弾が通っていった。女の子はすくんで泣き出してしまった。」

 

と話してくれました。また森田忠明さんは、

 

「家の玄関の前で、弟のおしめを替えていたら、グラマンが急に山の陰から出てきて、機関銃を撃ってきた。あわてて家の中へ飛び込んだ。」

 

と、その頃の様子を話してくれました。

 

 

 

爆弾を落とすB29爆撃機(35周年記念誌より)
爆弾を落とすB29爆撃機(35周年記念誌より)

 

 それでも都会に比べれば空襲がひどくない折本・大熊に、親戚などを頼って引っ越ししてくる人たちも増えてきました。これを「疎開」といいます。遠い沖縄から疎開してきた人たちもいたそうです。

 

 物が足りなくなり、食べ物だけではなく、靴やゴムまりまで自由には買えず、配給になりました。鉛筆は本当に短くなるまで使いました。折本・大熊はお米や野菜を作っているので食べ物に困ることはそれほどなかったそうですが、親戚の人などが疎開してきて人が増えたので、お米の弁当の代わりにサツマイモを持って行かなければならないこともあったそうです。

 

 学校も兵舎になり、兵隊が寝泊まりするようになりました。職員室だけを残して、学校は使えなくなったので、子ども達は淡島神社や大熊神社の神楽殿で勉強をしました。今は残っていませんが、折本町の「荷扱所」(野菜の集荷所)まで教室の代わりに使いました。子ども達はさん俵(米俵の蓋)を持って通いました。椅子が無いので、さん俵を敷いて座ったのです。それでも教室が足りないので、外で勉強する子と、室内で勉強する子と交代だったそうです。大熊神社では木の枝に黒板を下げて勉強したのです。

 

 学校では先生は厳しく、特に「天皇陛下」と言われる時は直立不動の姿勢をとらないと、きつく怒られました。その頃天皇は神様だと教えられていたのです。

 

 

 1945(昭和20)年8月15日に、日本が負けて戦争が終わりました。戦争が終わると、学校も元のように始まりましたが、教科書もありませんでした。謄写版で印刷した薄い本を教科書の代わりに使いました。ミルクの給食が始まりましたが、子ども達が交代で本校の都田小学校まで取りに行かなくてはならなかったのです。今では考えられない事ですね。

当時のラジオ体操<昭和14年 大熊宮で>(35周年記念誌より)
当時のラジオ体操<昭和14年 大熊宮で>(35周年記念誌より)

「横浜市立折本小学校創立35周年記念誌 わたしたちのまち」より

~「第17話 戦争中の学校」を読んで~

 この話には、先の太平洋戦争〔1941(昭和16)年12月8日~1945(昭和20)年8月15日〕で日本軍の兵士として命を落とされた方を祀る「慰霊碑」、圧倒的な米軍による「空襲」、都会から難を避けてきた「疎開」、そして、戦中・戦後の「食糧難」と「厳しい学習環境」などについて書かれています。 これらはいずれも、豊かで幸運な時代を生きているわたしたちですが、是非後世に語り継がなければならない事柄でありましょう。

昭和19年の東京都のポスター(ウィキペディアより)
昭和19年の東京都のポスター(ウィキペディアより)

 

 戦時中の「疎開」について調べたところ、東京・大阪のような大都会では、戦争開始時点には既に縁故・知人を頼った「任意の疎開」が推奨されていました。

 

 その後戦況が悪化した昭和19年の中頃になると、工業地帯を抱える大都市あるいは米軍との戦闘が予想される沖縄から、比較的安全な地方の町村への大規模で半ば強制的な「学童の集団疎開」が開始されました。そして、昭和19年9月末には全国で40万人を超える学童が疎開していたとのことです。この集団疎開では、多くの学童が親元を離れて寂しい生活を余儀なくされました。また、その後運悪く都会の空襲により親を亡くし、戦争孤児となった学童もかなりいました。

 

 

 ここ折本への「疎開」は京浜工業地帯から近いこともあって、強制的であってもこのような集団疎開ではなく、家族ぐるみの移住に近い疎開であったようです。

 現折本町内会長の眞次英一さん(昭和11年生れ)のご一家も、この時期(昭和19年8月)に神奈川区から家族ぐるみで折本に疎開して来られました。

 眞次さんはこの時小学2年生で、今の西原公園にあった折本小学校(正式には都田小学校の第2分教場、川和が第1分教場)に通い始めたそうです。しかし、分教場にはすぐに軍隊が駐留することになったために、学校の授業は第17話にもあるように淡島神社や大熊神社の神楽殿で細々と行われるようになったそうです。

 

 眞次さんよりやや年上の飯島喜作さん(昭和6年生れ:3組)は、太平洋戦争開始時は4年生で分教場でしたが、5年生になると本校の都田小学校に通われました。

 そして、空襲が激しくなった頃には、登校途中で警報が鳴り家に引き返したり、近くの農家に飛び込んで身を潜めるような怖い経験もされ、戦闘機同士の空中戦を間近に見て機体が墜落して行くのを見たそうです。

 

 また、家に居た時に空襲警報が鳴り、近くの防空壕(崖に横穴を奥深く掘って人が避難できるスペースを作ったもの)に皆で逃げ込んだこともあったそうです。

 

 戦時中の食糧難の時代は誰もが大変でしたが、実家が農家の飯島さんも、農繁期は授業を休んで農作業を手伝っておられました。また、昼になれば家に戻り大麦混じりのご飯に味噌汁をかけ、かきこんで(急いで)食べては学校に行っていたそうです。

 

 この時期に折本に疎開してきた眞次さんも大家族だったので、小学生でありながら借りた畑で野菜を育てる農作業の手伝いをよくやっていたそうです。

 

 食糧難は戦後においては更に深刻な状況になったようですが、折本地区では幸いにも田畑や水路が近くにあったため、どじょう・なまず・ザリガニ・かえる・しじみ等の他、バッタ・いなご等も捕獲し調理して食べていた、と眞次さんは当時を回想されていました。いずれも美味で、稀にうなぎが釣れた時は最高だったそうです。

 

 このような食糧難は昭和26・27年頃まで続いたようです。大変な時代でしたね。

 

 最後に、1980(昭和55)年に建立され第17話の冒頭にもある「慰霊碑」に書かれている〈碑文〉を紹介しましょう。

 

 未曽有の国難太平洋戦は、遠く忘却の彼方へ消え去らんとしている。

 憶えばこの大戦に家郷を離れ、遠く南海の果てに、はたまた北辺の荒野に、

 祖国の安泰を念じ戦った郷土の士の多かりしことよ。

 しかれども、戦敗れ遂に戦場の華と散り、護国の鬼となられし者24名に及ぶ。

 いまここに、そのみ霊を祀り、永久の冥福を祈らんとす。

 国破れて山河あり。 

 敗戦の苦難をのり越え、文化国家として再び繁栄の世は開かれてきた。

 このときにあたり、かの苦難の頃を思い起こし、平和の尊厳に目を開き、

 再び悲劇のくり返えさざることを念じ、淡島の聖地にこの碑を建つるものである。

 

  折本小学校校長 高橋治子 謹書

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