横浜市立折本小学校創立35周年記念誌「わたしたちのまち」

第16話 おじいさんが通った頃の学校(大正時代)

 大正時代の初めの頃の折本小学校は、東方町のバス停の山際にありました。五年生までの人は、ここに通っていましたが、この地域には6年生以上の人が通う高等小学校がなかったので、中川小学校まで通っていたそうです。そのため、この地域にも高等小学校をつくろうという願いが強くなり、1916(大正5)年、都田尋常高等小学校がつくられました。そのため、折本小学校は、都田小学校の分校となり、今の西原公園に移り第二分教場と呼ばれるようになりました。1年生から4年生までがここで勉強し、5年生以上は、都田の本校に通っていましたが、運動会や学芸会などの特別な行事の時は、分教場の子どもたちも本校に集まりました。

 

 この頃の校舎は、木造の平屋建てで三教室と女子が裁縫をする畳の部屋ぐらいしかなかったそうです。児童の人数も35人ぐらいしかいなかったので、先生も1・2年生に1人、3・4年生に1人しかいませんでした。

 

 学習科目は、修身・国語・算術・図画・唱歌・体操がありました。「学校手帳」というものがあって、教科(学習)、操行(日常生活の様子)が記入され、成績は、甲(よい)乙(ふつう)丙(わるい)の三段階で表されていました。

大正の頃のこの地域の地図(35周年記念誌より)
大正の頃のこの地域の地図(35周年記念誌より)

 

 授業の始まりの合図は鐘をならします。学用品は少なく、特に低学年は石版に石筆(ろう石)を使って書きました。中学年になると、今のように質のよいノートは無いので、ざらざらしたわらばんというものを使っていました。木の筆箱には、鉛筆が2本ぐらいしか入ってなく、消しゴムも持っている人は少なかったようです。また、机や椅子は、二人がけのものを使っていました。

 

大正6年頃の校舎全景(35周年記念誌より)
大正6年頃の校舎全景(35周年記念誌より)

 

 その頃の子どもたちは、陣取り・騎馬合戦・木の枝を使った棒倒しや石蹴り、フナ釣りやシジミ採りなどで遊んでいたそうです。夏は鶴見川で泳いだりもしたようです。また、子守や風呂焚きなど家の手伝いも沢山していました。

 

 子どもの服装は、男子は木綿カスリのつつそでの着物(普通の着物と違い、脇が開いて無く袖が短い)女子はげんろく(つつそでより少し袖が長い)を着て、自分の家で編んだ藁草履を履き、風呂敷に、本やお弁当を包み、肩からしょって登校しました。


 

 また、このころ折本の分教場には、音楽の教育に力を入れていた男の先生がいました。1923(大正12)年ごろ3.4年生だった、今70歳ぐらいになるおじいさんやおばあさん達は、その先生の教えで、ハーモニカ・シロホン・タンブリン・トライアングルを使った合奏を楽しんだという事です。本校に通うようになってからも分教場での練習が続きました。

 

 そして、6年生になった1925(大正14)年、NHKラジオから、出演を申し込まれ、その年の12月25日に演奏が放送されました。「カルメン」や「金婚式」などの演奏は、とてもすばらしかったそうです。そのラジオ放送を聞いた人たちから招かれて、川崎や横須賀の方まで演奏に出かけました。それからしばらくは、このハーモニカ・バンドの練習は、続けられたそうです。

桜の木が沢山あった校庭(35周年記念誌より)
桜の木が沢山あった校庭(35周年記念誌より)

「横浜市立折本小学校創立35周年記念誌 わたしたちのまち」より

~「第16話 おじいさんが通った頃の学校(大正時代)」を読んで~

 

 1877(明治10)年に東方町バス停付近に初めて登場した「折本小学校」は、その後1916(大正5)年に今の西原公園に移り、1975(昭和50)年に現在の地に落ち着くまで、約60年間にわたり地域の子供たちに教育の場を提供してきた経緯がよく分かりました。 

 

 昭和50年と言えばそんなに昔ではないので、以前より折本町に住んでおられる50歳代より年配の方は、西原公園にあった「折本小学校」に通われたのですね。

 

 第16話には、大正から昭和初期にかけての小学校における学習教育や子供たちの活動の様子が書かれていました。

 

 学習科目は今とほぼ同じようですが、修身(今の「道徳」)が最初に紹介されているところは、教育の基本が人格形成だと考えられていたようで興味深いです。

 

 今の「あゆみ」は「学習手帳」と味気ない呼ばれ方でしたが、これを受け取る時のワクワク・ドキドキ感は、いつも変わらないでしょう。

 

 

 また、服装や学用品はとても質素でしたが、遊びになると、今の子供たちよりはるかに元気で勇ましかったようですね。

 

1910(明治43)年~1917(大正6)年の「尋常小学読本」
1910(明治43)年~1917(大正6)年の「尋常小学読本」
1918(大正7)年~1932(昭和7)年の「尋常小学国語読本」
1918(大正7)年~1932(昭和7)年の「尋常小学国語読本」
1933(昭和8)年~1940(昭和15)年の「小学国語読本」
1933(昭和8)年~1940(昭和15)年の「小学国語読本」

NHKラジオに出演して満面の笑顔の生徒たち!(雲井耀一さん提供)
NHKラジオに出演して満面の笑顔の生徒たち!(雲井耀一さん提供)

 

 この第16話の最後の部分に出てくる《音楽の教育に力を入れていた男の先生》が、第6話で紹介した雲井麟静さんであることは、皆さんお気付きのことと思います。雲井先生は折本地区の子供たちに対する情操教育の大恩人です。

 

 関東大震災が発生したのが1923(大正12)年9月で、2年後の1925(大正14)年の3月にNHKラジオ放送が始まり、その年の12月に折本の6年生が出演したことになります。当時は震災復興真っ只中の時期でしたが、折本の皆さん方は、しばし世間の喧騒を忘れて、ラジオから流れる子供たちの音楽に耳を傾けたことでしょう。

 

 

 さて、大正から昭和に入ると、「満州事変(昭和6年~)」「日華事変(昭和12年~)」そして「太平洋戦争(昭和16年~)」と、我が国全体が慌ただしくなります。このような時代の小学校教科書に掲載されていた《晴れ間》という詩を最後にご紹介します。世の中は不穏でも、日本のどこにでも(もちろん折本にも)あった「豊かな自然」と「のどかな田園風景」を歌った心が洗われるような詩です。

 「わたしたちのまち」愛読者のみなさん、どうぞ次回もお楽しみに!

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