横浜市立折本小学校創立35周年記念誌「わたしたちのまち」

第13話 カモ場のあった頃

 みなさんのお父さん、お母さんが、子どもの頃、川向には「かも場」がありました。「かも場」というのは、大きな池を掘って、鴨という鳥を集め、手網を使って鴨をとる広い場所のことです。今から20年ほど前まで、川向の石関さんのおじいさん達が、このかも場を開いて、お客を呼んでいたのです。

石関かも場の「たまり」の一部(35周年記念誌より)

 

 石関さんが川向にかも場を作り始めたのは、1928(昭和3)年の事です。それまでかも場があった羽田に飛行場が出来るというので、石関さん一家は、あたり一面水田ばかりの川向に移って来て、かも場を作りました。池だけで約1万平方メートル、畳6千枚分の広さです。土地代と工事費を含めて、その頃のお金で14~5万円もかかったのですから、今のお金になおすと、14~5億円にもなります。

 

 かも場が出来上がると、この池に鴨を集めなくてはなりません。この頃の川向には、鴨は1羽もいませんでした。今の新横浜辺りには水辺があり、鴨が沢山いたそうです。そこで石関さんは、夜中に新横浜の鴨が沢山いる場所へ出かけて、石油缶をガンガン叩きました。驚いた鴨は飛び立って、近くの池に避難します。この避難した池が、石関さんのかも場だったのです。鴨は渡り鳥ですから、秋から次の年の春までしか日本にいません。だんだん寒くなる10月から12月いっぱいまで毎晩、石関さんは石油缶を持って、鴨集めに出かけたそうです。

鴨猟に出かける人(35周年記念誌より)
鴨猟に出かける人(35周年記念誌より)

 

 このような苦労が実り、石関さんの池には鴨が沢山集まるようになりました。多い時で約2万羽、池が鴨でビッシリ埋まったそうです。

 

 石関さんがかも場にお客様を呼び始めたのは、1930(昭和5)年からです。かも場に来られるお客様は普通の人とは少し違います。天皇の親戚や大臣、貴族とよばれた人たちなど有名な人ばかりです。元海軍の山本五十六元帥も、よく石関さんのかも場を訪れた一人です。こういう人たちは、その頃とても珍しかった自動車を5、6台も連ねて、鶴見川の土手沿いの車がやっと通れるくらいの細い道を通って乗りつけてきました。大臣がお客で来られる時など、警察官がかも場の周りを取り巻いて、ピストルを持った人が大臣につきっきりだったといいますから、その物々しさは大変だったことでしょう。

 

 お客様がいらっしゃると、鴨猟の始まりです。石関さん達は鴨猟をする3,4日も前から鴨に餌をやって鴨をよくならしておきます。そして本番。池の周りにある引き掘り(幅約1,5m)に餌を巻き、よくならしてあるアヒルを囮に使って、鴨をおびきこみます。引き掘りの両側にお客様が4人立って、パッと少し舞い立った鴨を手網で獲るのです。鴨猟の後、お客様たちは鴨料理に舌つづみをうちます。炭を入れた土器の上に鉄板を置き、その上で特別制のタレをつけた鴨の肉をネギと一緒に焼いて食べるのです。お客様たちは、鴨猟を楽しみ、食事を味わい、とった鴨をお土産に満足して帰られたようです。

 やがて戦争が始まり、餌不足のため、かも場は一時閉じられました。戦争が終わった後、アメリカ軍の人達がお客様として見えられ、餌や材料を用意してくれたので再びかも場を開くことが出来ました。元総理大臣の池田勇人氏や佐藤栄作氏、大平正芳氏も戦争の後、お客様としてみえました。

 

 戦争を挟んで長い間続いたこのかも場も、いよいよ閉じなくてはならない日がやって来ました。第三京浜道路の港北インターチェンジに、かも場の一部がかかってしまったのです。1万3千平方mほどの土地が買い取られる事になり、かも池も残せなくなりました。1961(昭和36)年3月を最後にかも場は閉じられたのです。

 

 やがて第三京浜が開通し、田んぼしか無かった石関さんの家の周りも工場が沢山建設され、自然が少なくなってきました。今までやって来た鳥達も、次第に姿を見せなくなったそうです。工場や車の騒音で、鳥の鳴き声もかき消されがちな今の川向に、かつて自然を利用した優雅な遊びの出来るかも場があったなんて、本当に夢のようです。

「横浜市立折本小学校創立35周年記念誌 わたしたちのまち」より

~「第13話 カモ場のあった頃」を読んで~

 鴨猟の歴史について調べたところ、訓練した囮(おとり)のアヒルを使って鴨を細い水路に誘導し飛び立つ瞬間に網で捕獲する方法は、元々は徳川将軍家や有力大名が行っていた伝統猟で、明治時代以降は皇室と宮内庁が中心となって維持保存がなされているようです。

 

 《石関鴨場》についてもっと知りたくなったHP編集グループ員は、川向町の石関さん宅を訪れ、鴨猟と鴨場に関する古い雑誌や新聞の切り抜き等の多くの資料を見せてもらい、いろんな話をお聞きしてきました。

 

 《石関鴨場》は石関家先代の石関四良(しろう)さん〔1907(明治40)年-1990(平成2)年〕が作った“我が国で最後の民間人経営の鴨場”で、第13話で紹介されたように、往時は多くのお客さんで賑わったそうです。

昭和7年アサヒグラフ特集「鴨の天国・地獄池」より

 

 鴨場が川向の地に作られたのは、近くに広がる田園地帯に多くの鴨が飛来していたこともありますが、かっての港北区(今の港北区・緑区・青葉区・都筑区)で最も土地が低い地域で、水を溜めて大きな池を作るのに便利だったからとのことです。

 

 その証拠に、1965(昭和40)年頃までは、近くの江川や鶴見川の氾濫が頻繁にあり、鴨場が水浸しになったことが幾度となくあったそうです。・・・

(今では想像するしかないのですが、昔は新横浜から川向あたりは広大な湿地帯だったのですね。)

 

 石関さん宅の資料の中で最も興味深かったのは、1932(昭和7)年のアサヒグラフの「鴨の天国・地獄池」と題する特集記事の、背広姿の紳士と和服・日本髪のご婦人がそれぞれ数名ずつ引堀の両側で勇ましく手網をかまえている写真でした。きっと当時でも珍しい遊びで、とても面白かったのでしょうね。

 

石関鴨場平面図(東西284m、南北147m)

 ところで、鴨は冬場に渡来する渡り鳥なので、鴨がいない夏場は稲を植えたり魚の養殖をしたりとご苦労もあったようです。しかし、池周辺の林は近所の子供たちの格好の遊び場となっていて、クヌギの木も多くありカブトムシ採りなども盛んだったと石関さんも回想されておられました。

 

 いろいろな歴史と思い出があった《石関鴨場》が1961(昭和36)年に閉じられた直接の理由は、第三京浜の開設に伴う用地買収とのことでした。当時を振り返ると、日本全体に国土改造や宅地開発の波が押し寄せ、また、環境変化も徐々に顕著になり、渡り鳥の飛来も減少してきた時代でもあったので、鴨場の閉鎖は、そのような大きな時代の流れを反映したものだったのでしょうか。

 

 なお、石関さん宅には鴨の調理器具(特製の七輪や鉄板)が保管されていましたが、残念ながら鴨猟の施設設備(引堀や鴨の様子を見る覗場)は残ってはいませんでした。しかし、引堀や覗場は、石関鴨場にあったのとほぼ同じものが、今も東京都の「浜離宮恩賜庭園」にあるとのことで、ご興味がある方は是非行ってみてください。

 

《石関鴨場》にまつわる話は尽きませんが、石関家の方が詠(よ)まれた俳句をご紹介しましょう。

注: 鴨場創設者の石関四良さんの俳号は《檪山荘孤遊(らくざんそうこゆう)》。

「檪」とは、カブトムシが好きな「クヌギの木」のこと。

 

 水鳥(みずとり)を友とし沼に住み古(ふ)りぬ   孤遊

 

次に、石関四良さんのご長男の石関久幸さんの奥様の句集より・・・

 

 暁闇(ぎょうあん)に声捉(とら)へたる戻り鴨   洋子

 

どちらの句も、「鴨」と「自然」を愛された石関家のみなさんのお気持ちがよく伝わってきますよね。

 

最後に、鴨場があった場所とその周辺の様子の移り変わりを示す航空写真を紹介しましょう。

(写真はいずれも国土地理院の国土変遷アーカイブ資料)

かも場周辺の移り変わりの写真4枚

 

 「わたしたちのまち」愛読者のみなさん、どうぞ次回もお楽しみに!

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