横浜市立折本小学校創立35周年記念誌「わたしたちのまち」

第11話 昔の農業

40年ほど前の折本ストアーあたり(35周年記念誌より)

 今の折本・大熊地区では、いろいろな野菜が作られ、車で横浜や川崎、そして東京の蒲田の市場へ出荷されていますが、昔の野菜作りはどうだったのでしょうか。斉藤智司君のおじいさん、清司さん(大熊町)にお話を聞いてきました。

 

 1937(昭和12)年頃は、ほうれん草・小松菜・トマト・キュウリ・カボチャ・スイカなどが春から夏にかけて作られ、秋には、大根・白菜・小カブが作られました。でも、玉ねぎとキャベツは作れませんでした。どうしてかというと、ここの土地は、火山灰で土がかるく、玉ねぎやキャベツを育てるだけの力がなかったからです。

 

 ここで作られた野菜は、牛車や馬車などで、片道3時間もかかって、横浜の中央市場へ運ばれます。市場が始まる朝の八時に間に合うように、朝4時頃に出かけました。市場では、少しでも値段のいいところを選んで売りました。そして、帰りには、肥料としての人糞(人間の大便や小便)を大きな樽に入れて運んできました。今では、化学肥料などがあり、人糞はあまり使われなくなりましたが、その頃は最高の肥料で、人口の多い横浜から、わざわざ買ってきていました。売ってくれる家と契約して、月15銭で買っていました。

 野菜を売る方法は、共同ではなく、個人で売っていました。道順は、折本町から新羽町の亀の甲橋を通り、小机から横浜へと行きました。現在の亀の甲橋は、新しくなり、土手の上にかかっていますが、その頃は土手より下の方にあったので、道路から下へおりて橋を渡り、また上へのぼって通りました。のぼりおりする時は、坂になるので、野菜や、樽の中の人糞がこぼれ落ちないようにするのが大変でした。横浜まで3時間もかかるので、途中の六角橋で休んでいきました。そこには”めし屋”といって、食事や休憩をするところが沢山あり、結構賑わっていました。

 

 牛も馬も毎日、横浜まで通っていたので、道順を覚えてしまったのでしょう。次のような笑い話があるそうです。

 

 市場へは、朝早く起きて行くので、帰る頃には眠くなり、車の上で、ついうとうとしてしまいました。しばらくして、車が止まったので目を覚ますと、ちゃんと自分の家に着いていたということです。牛や馬も利口ですね。

昭和17年頃の子どもたち(35周年記念誌より)

 さて、戦争が終わって間もなくの1947(昭和22)年頃には、組合ができ、共同出荷になりました。1週間に3回、市場の方から自動車が来て、野菜を運んでいきました。しかし、自由には野菜を売ることが出来ず、市場からは、運賃を取られ、大変な時期でした。

 

 それから、また個人出荷に変わったのは、1965(昭和40)年頃です。農家に耕運機が入り、農家の人達も自動車の免許を取るようになりました。車で市場へ野菜を運ぶようになったので、牛車や馬車で運んでいた時と比べると、大変便利になりました。

 

 野菜作りも、機械化されたので、とても楽になりました。でも一番気がかりなことは、連作をしているので、野菜に虫がついたり、病気になったりすることです。ですから、大事に育てた野菜が、虫もつかず、丈夫に育ったのを収獲する時が一番苦労がむくわれるのだそうです。

 

 こうしてみると、野菜作りは、お父さんお母さんが、子供を育てるのと同じように、大事に大事に作っていることがわかりますね。

「横浜市立折本小学校創立35周年記念誌 わたしたちのまち」より

~「第11話 昔の農業」を読んで~

 昔の農業がとても大変であったことが、この話を読んで理解できました。また、農業のやり方が、生産性の向上を目指してこれまで変化してきたことも知りました。

 

 農業のやり方を「耕作方法」「肥料」「出荷方法」に分けるとして、第11話では「肥料」について特に注目されているようでしたが、「耕作方法」も耕運機等の導入による機械化で、また、「出荷方法」も牛車・馬車から自動車の利用で大きく変わってきたことが書かれていました。

農業の移り変わり(手作業から機械化で)


 さて、注目の「肥料」ですが、先の大戦前(昭和10年代まで)は、人糞を肥料として使用することで、いわゆる「循環型農業」が見事に実践されていたのですね。

 

 そこで、HP管理グループでは人糞を使用した農業についていろいろ調べました。その結果、次のようなことが分かりました。

 

循環農業

 (1) 私たちが食べ物を食べたとき、実は3割位しか栄養としては吸収されず、残りは人糞として排出されるらしい。・・・(これはいかにももったいない話ですね。)

 

(2) 我が国では多分江戸時代よりもずっと前から、人糞の肥料により他国に比べても高い農業生産性を実現していた。・・・(作物は生ではなく、加熱調理して食べることで衛生面の問題に対処していた。)

 

(3) 先の大戦直後(昭和20年代前半)に、日本を統治していたマッカーサー司令部により、不衛生で寄生虫がなくならないとの理由で、人糞から化学肥料への一大転換の指導が行われた。・・・(食生活の欧米化も急速に進みました。)

 

(4) 化学肥料は農薬の使用も相まって我が国の農薬の生産性を飛躍的に高めたが、一方で、食の安全性が強く叫ばれるようになった。・・・(安全性と生産性の向上の両立は、農業の究極の課題でしょうか。)


(5) 近年になり、下水処理機能が発達し、処理場で消毒され微生物も完全に処理するような方式になってきた。そして、下水処理場が増えれば増えるほど、どんどん環境負荷(環境に与えるマイナスの影響)が増大してきた。・・・(環境負荷の増大はこれから将来を考える上で極めて大きな問題となりました。)

 

(6) このような状況下で、環境負荷を減らしていくために、人糞を再び肥料として利用しようという動きが注目され始めている。ただ、家庭の排水から肥料を作っていくには、実は人糞に含まれる抗生物質や洗剤といった微生物に悪影響を及ぼすものの使用も控えなければならず、「循環型農業・循環型社会」を実現するためには社会全体のシステムを変えていく必要がある。・・・(いろいろ考えていくと、これはかなりの難題ですね。)

アポロ8号から見た《宇宙船地球号》

  

 最後に、夢のある話をひとつ。

 

 そんなに遠くない(?)将来に、人類が長期間の宇宙旅行をすることもあるでしょう。その際宇宙船には、生命維持のために必要な水や食料の「循環システム」が組み込まれていることが不可欠と言われています。宇宙船の循環システムに関わるノウハウは、我々の社会を循環型に変えていこうとする場合に、大いに参考になることでしょう。

 

 我々が住んでいる地球は《巨大な宇宙船》にたとえられることがあります。この素晴らしい地球を我々の子孫に残していくためには、循環型社会への転換を真剣に考えていく必要があるのかもしれません。

 

 以上、折本の「昔の農業」から入って、とんでもなく大きな話になってしまいました。この第11話で古い時代の「ノスタルジックな思い出」を期待していた読者のみなさんには、話が過去と反対方向の未来に向かってしまって大変失礼しました。

 

 

 

「わたしたちのまち」愛読者のみなさん、どうぞ次回もお楽しみに!

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