横浜市立折本小学校創立35周年記念誌「わたしたちのまち」

第8話 横浜線が出来た頃の話

明治時代の横浜線(35周年記念誌より)
明治時代の横浜線(35周年記念誌より)

 みなさんは、横浜線に乗ったことが何回もあると思います。緑色や青色の長い車両で、お客さんをたくさん乗せていますね。おじいさんやおばあさんの子供の頃は、ほとんどの人が横浜線に乗ったことが無かったようです。折本の人が横浜線に乗る時は小机駅まで40分ぐらい歩いて行きました。鉄道好きな男の子たちは、学校が終わると汽車を見るためによく小机まで行き、田んぼの真ん中にあるレールに耳をあて、列車の響きが遠くなったり近くなったりするのを確かめながら遊びました。汽車の本数が少ないのでのんびりとしていたようです。

 

 おじいさんの子供の頃の横浜線は、二等車が青で三等車が黒の客車でした。汽車の中の床や椅子などは、木で出来ていて、列車の前が客室になっており、後ろは貨物車でした。車両が短いのでホームも小さく、汽車が着くと放送を通さないで駅員さんが大きな声で案内をしてくれました。

 

 みんなが「駅」と使っている言葉も、鉄道が出来たばかりの頃は「ステーション」と外国の言葉で呼ばれていました。東神奈川の駅には、赤帽をかぶって赤い鼻緒の草履を履いた男の人が、サンドイッチやお寿司などを笹折に入れ、お弁当を売っていました。大きな道路の踏切では、踏切番がいて、白い旗を振って安全のサインを汽車の運転手に送っていました。

 横浜線が八王子と横浜の間を結んだのは二つの理由がありました。


 一つは生産地から買い集めた生糸を横浜の港からアメリカへ送るためでした。もう一つは、セメントの原料としての石灰岩を奥多摩の五日市から川崎の工場へ運ぶためでした。新宿と八王子の間に中央線が開通したときは、東京周りで横浜へ原料が運ばれていましたが、横浜の承認が横浜と八王子の間に鉄道を通すように粘り強く運動を繰り返したのち、やっと政府から許可がおり、横浜鉄道株式会社が出来ました。横浜線の鉄道を通す初めの計画は、東神奈川から小机をへて、川向橋あたりで鶴見川を渡り、その頃の中心地であった川和を通す予定でした。しかし、川和の人達が鉄道を通すことに反対したり、鉄橋を二つかけるお金が鉄道省になかったりしたため、中山・長津田を通すことになったのです。

今の横浜線(35周年記念誌より)
今の横浜線(35周年記念誌より)

 1908(明治41)年9月23日に、八王子と東神奈川の間に汽車が通るようになりました。初めて横浜線を見た人は「火事が長屋をひっぱっている。」と、言ったそうです。黒い煙をモクモクはきながら動く汽車は、トンネルの中に入ると、いっぱいススを出しました。ススで顔が汚れるので、トンネルに入る時は汽笛の「ボー」の合図でお客さんは窓を閉めました。小机のトンネルに入る時「ボーボー」と鳴る汽笛の合図は折本までよく聞こえました。

 

 折本の農家の人達は、朝一番の列車の汽笛で目を覚まし、仕事を始めました。1日に6回くらいの往復で、乗り遅れたら次の汽車が来るまで三時間も待たされました。通りかかる汽車にお客さんが手を振ると汽車を止めて乗せてくれたり、途中の駅でトイレに行けるほどのんびりとしていました。

 

 その頃の運賃は、長津田から東神奈川まで23銭で今の700円ぐらいです。着くのに1時間もかかったそうです。

 

 明治の頃の汽車も今では電車に代わり、横浜線に乗る人もずいぶん多くなりました。

 

「横浜市立折本小学校創立35周年記念誌 わたしたちのまち」より

~「第8話 横浜線が出来た頃の話」を読んで~

 この話を読むと、鉄道が国の産業の発達と地域の開発に密接に関わっていることがよく分かります。


 それにしても、黒い煙をモクモクはきながら動く汽車を、「火事が長屋をひっぱっている」とは面白い表現ですね。


 さて、横浜線と折本町の人々との繋がりについて HP 管理グループ員が調べましたが、この第 8 話に記載されているような電化前の横浜線を走る蒸気機関車の汽笛の音を聞いた記憶のある古老には残念ながらお会いすることはできませんでした。


 しかし、電化になってからの貨物列車が通る時のガタゴト音は聞こえてきた事を鮮明に覚えている方は何人かおられ、お話によれば、夜などは、童謡にある”夜汽車”の雰囲気の一端のように、確かに遠くからレール音を鳴らして通過しているのを感じることができたそうです。


 今では、想像ができない折本の住民もおられるかと思いますが、東海道新幹線開通に伴って新駅開設となった「新横浜駅」が昭和39年にできるまでは、ここ折本の各家の縁側から(ちょっと古い表現?)でも小机駅まで見渡せて、ガタゴト音だけではなく、列車・客車そのものも当たり前のように見えたそうです。


 当時は、小机、新横浜まで延々と田んぼが広がっており、春には、その田んぼも田植えが始まるまでは、レンゲが咲き誇っていて、そのレンゲ田んぼの中で、男の子達は野球をして遊んでいたりしたそうです。


 また、鶴見川も今と比べれば十分にきれいで、夏は、小机堰に行っては川遊びや泳いだりしたとのことです。田んぼの周りの用水ももちろんきれいで、メダカ、フナ、ドジョウも普通に生息しており、夏の夜には蛍もあちこちで見られたようです。 


 そして、横浜港での花火もきっと大きく見えたことでしょう。・・・(これは、今でも、折本の高台にお住まいの家からは見えますね。)


 時代を少し遡って第二次大戦後の間もない食糧難の頃は、鶴見川の土手では、自給用にジャガイモ、トマト、ナス、サツマイモ等の野菜を育てている情景がこれまた普通のようにあったそうです。セリ、ノビル、ヨモギ等も取ってきては市場に出すこともあったようです。


 しかし、同時に鶴見川の氾濫による浸水(田んぼはもちろん道路も)被害も経験し、逆に夏の日照り続きで、田んぼに入れる水に難儀をきたした時期もあったそうです。


 第3話の「早苗地蔵と水路作り」ほどの苦難ではないのでしょうが、大熊川、谷戸川、江川、鶴見川、そして今の折本交番の所にあった池の水をポンプで汲み出したりして、田んぼでのお米作りに精を出した苦労も味わったそうです。夜空はもちろん、周囲は一点の光も無い時代だったからいわゆる満天の星空だったとのことでした。


 当時はみんな大変だったけど、今思うといい時代だったのでしょうか・・・。


昭和50年代の小机駅(「港北区郷土史」より) ⇒ 今の小机駅表口(南出口)

昭和50年代の小机駅(「港北区郷土史」より)

今の小机駅表口(南出口)


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