横浜市立折本小学校創立35周年記念誌「わたしたちのまち」

第4話 観音山の観音様

観音様 (「わたしたちのまち」より)
観音様 (「わたしたちのまち」より)

 織本工務店(観音前のバス停近く)の前の山の急な坂道を登って行くと、お堂があり観音様がおかれているのを知っていますか?

 

 まわりには少し土をもりあげた土塚(つちづか)がいくつもあります。秋になると道が落ち葉で埋まり、登るのも降りるのも靴が滑って大変な坂です。

 

 観音様は、苦しみ、悲しみ、悩む人々を優しく包み、救ってくれる大きな力を持っているといわれています。折本の観音山にある観音様は300年も昔からあるのです。いったいこの観音様はどうして造られたのでしょう。

 

 侍が世の中を治めていた江戸時代の折本の様子を調べてみましょう。江戸時代の終わり頃書かれた本に、そのころの折本の様子が載っています。「土は黒土赤土が混じり、田が多くて畑は少ない。水害も日照りもある。・・・家は41件。」と書かれています。そのころはほとんどがお百姓をして暮らしていて、谷川の水を田に引き入れてお米を作っていました。真照寺(しんしょうじ)や淡島宮はもうその頃からありました。

 

 今から400年ほど前の1591年に、折本村の大半を松下常慶(じょうけい)という侍が治めることになりました。松下常慶は徳川家康に仕えていた侍です。

 江戸幕府を開いた徳川家康がまだ若く、小さな岡崎城(今の愛知県)の主だった頃から、松下常慶は家康に仕えていました。家康が近くの国を攻め滅ぼし、国を大きくして強い武将になった時、全国を治めていた豊臣秀吉は、家康に関東の方を治めるように命令しました。家康は仕方なく関東に移り、江戸(今の東京)を中心に町を作りました。その時、松下常慶は家康から、この折本の土地を治めるように言われたのです。

 


 松下常慶という人は旗本という身分でした。旗本という侍は、戦の時、徳川家康という大将のいることを示す旗の下で、大将に仕えている侍です。

 大将である家康の指図に従って、命がけで戦い、家康を守ってきた侍です。侍は、戦で負けて死ぬ人もあり、生き残っても大将が負ければ、勝った人達に自分の土地を取られ従わされます。だから死に物狂いで戦ったことでしょう。常に戦に備え、体を鍛え、武器も磨いていたでしょう。勝てば褒美が貰え、ますます強く豊かになれます。

 

 このような世の中で、お百姓は、戦の手助けをさせられ、道や橋や砦を作ったりしなければなりませんでした。時には戦で田畑を荒らされたりして、苦しい思いをしました。また作ったお米の半分ほどを年貢として侍に納めなければなりませんでした。

 

 松下常慶が折本を治めるようになってから、常慶は先祖の霊を祭る所を観音山の場所に移しました。松下常慶が亡くなった時に、この観音山に葬られましたが、のちに仕事や住まいの関係で、お墓は江戸の市ヶ谷月桂寺いちがやげっけいじに移されました。その後に観音様が建てられたのです。そしてこの山も観音山と呼ばれるようになりました。

 

 松下常慶という人は槍の名人だったといわれています。村人を呼んでごちそうをした時に、得意げに米俵二俵(120㎏)を槍に刺し、軽々と遠くへ放り投げたそうです。松下常慶が亡くなった後、常慶の命日には、観音山の観音様の前で酒盛りが開かれました。その時、松下家から村人へ、酒代、肴代として米二俵、墓地の掃除料として米二俵、また読経料としてお寺に米二俵が出されたそうです。

 

 こうして、松下家と折本村の人々の関係は300年近く続きました。しかし今から120年ほど前、江戸幕府が明治政府に敗れたので、徳川幕府の旗本だった松下家は土地を治める力を無くしてしまいました。そうしていつの間にか、観音様も山の中にひっそりと取り残され、今のように深い竹藪の中に忘れられたように置かれているのです。

 

 遠い400年も昔の事を偲ぶものが折本にも残っているのです。これからも大切にして、昔の事を語り伝えていきましょう。


「横浜市立折本小学校創立35周年記念誌 わたしたちのまち」より

~「第4話 観音山の観音様」を読んで~

 毎日のように眺めている観音山に一度として行ったことがなかったHP編集グループのメンバーは、1月のポカポカ陽気の日に連れだって観音山の坂道を通って観音様を見に行ってきました。

 

 坂道は思ったより急でした。観音様は、鬱蒼とした竹林とそれぞれかなりの樹齢と思われる数本の楠(?)に守られ、別世界のような山頂のお堂に静かに座っておられました。

 

 坂道の登り下りで気付いたのですが、道が人手で整備され、ゴミも全く見当たりませんでした。

 

 疑問に思っていたところ、ご近所のYさんが定期的に坂道とお堂の回りの清掃をされているとのことでした。

 Yさん、いつも有難うございます! 


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 さて、「観音山の観音様」の話にでてくる松下常慶(まつしたじょうけい)さんは、どのような人だったのでしょうか?

 

 いろいろ調べたところ、この人は徳川家康公の信任が厚かった人のようで、家康公が将軍職を退き駿府(今の静岡市)に移った際の駿府城築城の時の功績もあり、城内に「常慶蔵」や「常慶門」の名前がつけられ、大きな屋敷も与えられたそうです。

 また、しばらく前まで静岡市には松下常慶が居住していた地域が「常慶町」として残っていたとのことです。

 

 最後に、松下常慶にまつわる「塩辛すぎるお新香」という話を紹介します。

 

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 駿府城に隠居してからのある時の事、奥女中たちが家康公に直訴したことがあった。

 「毎日のお新香が塩辛すぎます。台所奉行に、塩分を少なめにするように御申し付けて下さりませ」と彼女たちは言った。


 家康公はあまり深く考えずに彼女たちに台所奉行に伝えると約束したのである。そこで、台所奉行の松下常慶を呼んだ家康公は、奥女中たちの要求を伝えた。しかし、常慶の言い分はこうであった。
 「恐れながら、今でさえ奥女中たちはお新香をバリバリと食べてしまうのに、この上、もし塩分を控えれば、どれだけ消費量が増えるかわかりません」

 常慶の話を聞いた家康公は納得し、「そうか、このままが良いな」と言ったという。結局、駿府城のお新香の塩辛さはそのままであった。

 

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 成る程、常慶さんは随分しっかりしていた方のようですね。

 

 しかし、毎年の定期健康診断の結果が気になり、いつもお医者さんから「塩分控え目に!」と言われている身としては、「塩辛すぎるお新香」はご勘弁願いたいのが正直なところです。

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