横浜市立折本小学校創立35周年記念誌「わたしたちのまち」

第3話 早苗地蔵 (さなえじぞう) と水路作り

早苗地蔵(さなえじぞう)
早苗地蔵(さなえじぞう)

 みなさんは、堂ヶ坂(どがさか)の所にあるお地蔵様を知っていますか?早苗地蔵と呼ばれているあのお地蔵様には、昔からこんな伝説があるのですよ。

 

 これは、今から450年ぐらい前のお話です。そのころの折本はまだ小さい村で、家も20軒ぐらいしかありませんでした。村人たちは、田畑を耕して細々と暮らしていたのですが、どうしたわけかここ2、3年、日照りが続き、折本の稲は実りの秋を待たずに枯れてしまうことが多くなりました。来る年も来る年も大事に育ててきた稲がまるまるとした実をつける事無く枯れてしまうので、村人たちは、だんだんイライラするようになってきました。

 

 これを見ていた了信(りょうしん)というお坊さんは、村が荒れていく様子にひとり心を痛めていて、ある夜、とうとう自分の決心を娘の”つが”に打ち明けました。

 

「毎年毎年日照り続きで、村々の田はどれも不作だ。これでは村人たちがイライラするのも無理はない。何とかしてあげたい、といろいろ考えたのだが、どうも、山を掘り抜いて谷戸川(やとがわ)の水を引いてくるより他に方法が無いように思うのだよ。」

 

谷戸川とは、今の大熊川のことですが、その頃その辺りに住んでいた人は、谷戸川と呼んでいたのです。父の言葉に、つがは大変びっくりしましたが、父の顔に浮かんだ固い決心を見て取ると、黙ってうなずきました。

 次の日から、了信は一人で鍬をふるい始めました。村人たちは、「かわいそうに。とうとう了信さんは気がふれてしまったよ。」と、口々に囁き合い、了信の姿を遠くから眺めていました。しかし、もくもくと掘り続ける了信の姿に心打たれたのか、一人、また一人と作業に加わりだしたではありませんか。冷たい北風の吹く頃には、土を掘るもの、もっこに入れる物、外へ運ぶものなど、それぞれが一生懸命働いていました。

 

 村中で力を合わせて掘り出してから一年が過ぎ、寒さも和らいできたある日のことです。夕方ごろ、南側の溝の方から突然ものすごい音と地響きがしてきました。

 「ドドドドーン。ドドドーン。」

 「うわぁぁぁぁ。」

 山が崩れたのです。掘り進められて深くなり、崖のようになった溝の壁が崩れたのです。この事故で、了信をはじめ三人の村人が岩と土にのまれ、死んでしまいました。村のために力を尽くした4人の遺体は、川を見下ろす丘の上に埋められました。

 

 指導者を失った人々は深く悲しみましたが、犠牲となった4人のためにも、今まで以上に精を出して働きました。夏が訪れようとしていた時、不幸が再び村を襲いました。またもや土砂崩れが起き、今度は8人もの命が奪われてしまったのです。

 

 二度の事故で12人を失いながらも用水路はとうとう完成しました。長い間の苦労が実り、折本村の田んぼには谷戸川の水が流れ込んでいます。その年の田植えの頃、人々は大切な早苗を何束か持ち寄り、12人が眠っている塚に捧げて、彼らの冥福を祈りました。その後も、毎年田植えの季節になると、塚には早苗が供えられたので、ここは早苗塚(さなえづか)と呼ばれるようになりました。それから百年ぐらいして、了信と”つが”をしのんで塚に2体のお地蔵様が置かれ、早苗地蔵(さなえじぞう)となったのです。

 

 村の人々が協力して作ったこの水路は、今では埋め立てられ、広げられて、道路になっています。そこには昔の面影はありませんが、田植えの季節にお地蔵様に手を合わせて、昔をしのぶのも良いかもしれませんね。


昔のほりわりのようす
昔のほりわりのようす
今のようす
今のようす

「横浜市立折本小学校創立35周年記念誌 わたしたちのまち」より

~「第3話 早苗地蔵 (さなえじぞう) と水路作り」を読んで~

 第3話“早苗地蔵と水路作り”に掲載されている3枚の写真は、いずれも真照寺住職の雲井耀一さんが記念誌編集時に提供されたものだそうです。


 この中の「昔のほりわりのようす」の写真は、大正13年に切り通し上に完成した『欄干橋(らんかんばし)』です。 この橋はその後架け替えられて、「今のようす」の写真のように『真照寺橋』になっています。

 

 ホームページ管理グループは、「堂ヶ坂(どがさか)の切り通し」にまつわる話を、さらに6組の加藤恒雄(65歳)さんに伺ってきました。

 

 加藤さんは、「堂ヶ坂の切り通しは、折本表側の水田地帯(折本耕地と呼ばれていた)の夏の水不足を救うために、灌漑(かんがい)用水路として旅僧父娘・村役人・村民達が7年をかけて艱難辛苦(かんなんしんく)の末に作り上げた掘り割り(水路)であり、それを昭和の時代に入ってから、先々代の祖父達村民が協力して暗渠(あんきょ:地下に水路を埋めたもの)排水方式の切り通しにして、折本の裏と表が楽に通行往来できる道として完成させた」と子供の頃から聞かされていたそうです。

 

 次の2枚の写真は、いずれも加藤さんに提供して頂いたもので、1枚目は昭和9年の暗渠排水道路完成時の写真で、2枚目は昭和11年の現西原橋に完成した大熊川からの分水堰の写真です。この堰は屋号「ごぼう屋」の家の前にあることから、地元では「ごぼう屋の堰」と呼んでいたそうです。


 この第3話を読み、加藤さんのお話を聞いて、「堂ヶ坂の切り通し」が現在のようになるまでには、先人たちの大変な苦労があったことが本当によく分かりました。

 

 なお、現在の早苗地蔵の他に、用水工事で犠牲になった村民を弔っている”塚”が現存しているようですので、確認して改めて報告したいと思います。

昭和9年 灌漑用水堀を暗渠排水にして地上を道路に(提供:加藤恒雄さん)
昭和9年 灌漑用水堀を暗渠排水にして地上を道路に(提供:加藤恒雄さん)
昭和11年 分水堰の完成(提供:加藤恒雄さん)
昭和11年 分水堰の完成(提供:加藤恒雄さん)

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