横浜市立折本小学校創立35周年記念誌「わたしたちのまち」

第2話 淡島社と大熊社の昔

 折本小学校の近くには、淡島社と大熊社の二つの神社があって、お祭りの時は、町の人たちが大勢集まってにぎわいます。

 二つの社は、今から70年ぐらい前に、村の社として祭られるようになりました。淡島社や大熊社の言い伝えをもとにして、昔の様子を調べてみましょう。


1.  淡島社のこと

「江戸名所図会」の淡島社
「江戸名所図会」の淡島社

 淡島社は、東京が江戸(えど)と言われた頃、30年間ぐらいかかって書かれた「江戸名所図会(えどめいしょずえ)」という本にも出るぐらい名が知られ、180年ぐらい前でも、3月3日のお祭りは、とても賑やかで、江戸からわざわざお参りに来る人もいたのです。

 お年寄りの話では、お祭りは春なので桜の花が咲く木陰でむしろを敷き、お酒を飲んだりしたそうです。また、綺麗に着飾った女の人や子ども達でお宮の中はいっぱいになりました。出店や催し物で、身動きが出来なかったそうです。

 

 淡島社は、330年ぐらい前から今の所にあったようで、もっと広かったといわれています。お祀りをしている神様は、少名彦命(すくなひこのみこと)と神功皇后(じんぐうこうごう)です。少名彦命は、国を治め、人々に思いやりをかけて、薬の使い方を教え病気も治したと言われていて、薬の神様として敬われています。神功皇后は、女の神様で、女の人の願いを叶えてあげたり、困っている時には助けてあげたりしたので、神功皇后の恵みを受けた人達は、とても多かったと言われています。

淡島社
淡島社

 淡島社の石碑には、次のような言い伝えが彫られています。

 

 『三百年ほど前は、お宮が見えなくなってしまうほど、桜の木がよく茂っていました。社の近くに住んでいる重郎左衛門(じゅうろうざえもん)さんが、山の中へ掃除に行きました。

 そこは、めったに人には会わない山でしたが、重郎左衛門は白い衣を着たおじいさんに会いました。そして腰が痛んで困っていると、おじいさんに話したところ、「淡島社にお願いしてお祈りをすれば治る」といって、風のように姿を消してしまいました。

 

 これは、重郎左衛門は神様が姿をかえて教えてくださったのだと思って、すぐに淡島社へお参りをして、お願いをしたところ、二度と病気にならなかったそうです。そのことがあってから、病気で困っている人たちが、たくさんお参りに来るようです。』

2.  大熊社

大熊社
大熊社

 大熊社のお宮のまわりは、公園や保育園があり、町の人たちが、ゆっくり休んだり、遊んだり出来る所です。大熊町の公民館、広場があります。

 秋のお祭りには大勢の人や出店で賑やかです。みなさんの中にも出かけて楽しんだ人も多いでしょう。

 この社は杉山神社と言われています。昔の詳しい様子は、はっきりしていません。お祀りをしている神様は、日本武尊(やまとたけるのみこと)です。「草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)」などの話で知っている人もいるでしょう。

 

 杉山神社という名前のお宮は、緑区に十四もあります。千年も昔から名前が出ていますが、わからない事ばかりといわれています。

 しかし、杉山神社のあるところは、どこも鶴見川の周りから遠く離れていません。そして日本中には広がっていないということです。

 

 杉山神社は、大熊町の人たちのお宮として大切にされています。公民館があって、毎月町会の人たちが集まって町のことを相談するところにもなっています。

「横浜市立折本小学校創立35周年記念誌 わたしたちのまち」より

~「第2話 淡島社と大熊社の昔」を読んで~

奉納の碑
奉納の碑

 淡島社における神事のひとつである『どんど焼き行事』ですが…

 

 以前折本町内では、毎年1月14日に、旧5地区(かみ-現1組・2組、ひかわ-現3組・4組、いち-現5組・6組、やと-現7組・8組、はら-現9組・10組)ごとに農道・空き地で、お正月の古札(こふだ)、注連縄(しめなわ)や飾り、門松(かどまつ)等を焼いていました。


 そして、その燃えている火で、枝先や竹先に刺したお団子を焼いて食べると、風邪等をひかないと親たちから伝えられていました。

 この風習は「団子焼き」とも呼ばれていたそうです。


 しかし、昭和50年以降(1975年~)は都市化が進んできたため、催事場所の確保が難しくなり、全地区(組)分を淡島境内で神事として催す事になりました。



除幕式の写真(10人の世話人と宮司)
除幕式の写真(10人の世話人と宮司)

 この『どんど焼き』に関連して、淡島社にある「奉納の碑」の建立までの経過について、淡島社現総代の角田和穂様(1組)にお聴きしたところ…

 

 平成24~25年度に、旧5地区にあった「塞の神(さいのかみ)」を淡島社の境内の一カ所に纏めて納めようということになり、淡島社の世話人をされていた10名の方々が私費を投じて、平成26年5月(実際の設置は8月)に「奉納の碑」を建立する運びとなったそうです。

 

 

 『どんど焼き』は、今では、町外の仲町台の保育園の園児たちも見学に毎年訪れて来るほど有名で貴重な行事となっています。 

~淡島社の歴史(補足)~

 みなさん、二の鳥居の横にある丸い形の「淡島社の由緒の碑」を、きっとご覧になったことがあるでしょう。

 みなさん、二の鳥居の横にある丸い形の「淡島社の由緒の碑」を、きっとご覧になったことがあるでしょう。

 この碑には、淡島社は『江戸時代以前に、和歌山市加太の淡島大明神より分祀鎮座』とあります。『江戸名所図会によれば、相模街道大熊村より左に入りて織本村にあり』とも書かれています。
 そして、かつては近傍の街道に淡島社に至る道しるべ(道跡)があったようですが、『それは、今では消滅されたようである』と書かれています。

 

…(ところが、この道跡が、東方町の長谷川兼男様の庭宅で発掘され、平成12年に自費で再建された道しるべを、今、岩崎橋信号の角で見ることができます。)…

 

現在の淡島社の写真
現在の淡島社

 「淡島社の由緒の碑」の末尾には、『寛保二年、某英至と云う人が社殿を新築し、昭和51年に道路拡張の為、社殿を(宮司、氏子で)現在のように建て替えた』とあります。

 また、碑の裏側には、淡島社にある三基の鳥居建立の年代の違いや、その歴史的経緯についても書かれています。


 なお、淡島社が女性の祭神を祀り、縁結び・健康・魔除けの願が掛けられ、崇められるようになった由来については、各地の資料館にある文献にも紹介されているようです。機会があれば是非ご覧になってください。

淡島社の成り立ちが記された碑の写真
淡島社の由緒の碑

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