横浜市立折本小学校創立35周年記念誌「わたしたちのまち」

第1話 土器と折本貝塚

今、わたしたちが住んでいる折本町や大熊町には、大昔から人々が生活していたそうです。このあたりは、ほかの場所と比べると、とても生活しやすかったのです。なぜだと思いますか?

 

今では、交通が便利でお店が近くにあるような場所に、たくさんの人々が住んでいますね。でも、大昔の人々にとっては、海や川が近くにあって、少し小高い平らな場所が一番生活しやすかったようです。

 

海や川が近くにあるとどうでしょう。毎日の食物になる魚や貝をとることが出来ます。大昔、学校のまわりの小高い場所から川向町や鶴見川の方角を見ると、広い海だったのです。そのため、折本町や大熊町のあちこちで、土の中からいろいろなものが発見されました。

 

それでは、そのいくつかの場所を詳しく紹介しましょう。

竪穴式住居跡
竪穴式住居跡

1. 折本貝塚

折本貝塚は、今の第三京浜道路から淡島神社にかけての小高い場所です。

 

今から三百年以上も前からこのあたりには、大昔の人々が捨てたとみられるカキ・ハイガイ・ハマグリなどの貝の殻や、魚の骨・獣の骨などが、十数か所発見されています。このような場所のことを「貝塚」といいます。

その後、「竪穴式住居跡」と呼ばれる、大昔の人々が住んでいた家の跡も見つかりました。

 

今でも山や畑の中で、貝の殻を見ることが出来ます。「貝塚橋」というのは、このようなことから名前が付けられたそうです。

昭和の初めの頃の折本貝塚
昭和の初めの頃の折本貝塚

2. 折本西原遺跡

今の西原公園のあたりから東方町にかけて、東西に長い台地があります。

 

近くには、鶴見川と大熊川が流れています。1978(昭和53)年から二年間にわたって土の中を掘り起こしてみたところ、このあたりでも大昔の人々が住んでいた家の跡が80ヶ所以上も見つかり、これが折本村になったとも言われています。

また、たくさんの家の周りには、四角い形をしたお墓の跡があり、その周りは雨水が流れやすいように溝が掘られていたそうです。

3. 大熊仲町遺跡

ここには、学校の北側の小高い畑や家が立ち並んでいる場所です。大昔の大熊川は、今よりも大きな流れでした。

 

1970(昭和45)年の調査では、この辺りでも、あちこちで土の中から家の跡が168件、食物をしまっておいたり、火をつけたりした洞穴125ヶ所、また、獣を捕るための落とし穴がいくつか発見されています。

その他、生活の道具として、粘土を焼いて作った土器や、石を削って作った釣り針・斧など、あるいは、土や石で作った人形・鈴・身に着ける飾りなども出てきました。

 

このように、今私達が住んでいる折本町や大熊町のあちこちには、大昔から人々が生活していたのです。今では、たくさんの家が立ち並び、道路が作られて、あまりその跡を見つけることは出来なくなってしまいました。

しかし、そこで見つけられた土器・斧・貝塚の一部や家の跡の写真などが、学校にも残されています。みなさんも、昔から残されている珍しいものは大切にするように心がけましょう。

「横浜市立折本小学校創立35周年記念誌 わたしたちのまち」より

~「第1話 土器と折本貝塚」を読んで~

その当時を記憶されている方々にお話をお聞きした事をご紹介致します。

「折本貝塚」が多数発見された地所は、ほとんどが第三京浜道路開通工事に伴なって本格的に掘り起こされましたので、その跡地を示すモノとして、橋の名前に「折本貝塚橋」が命名されました。(ちなみに、この橋の竣工日は昭和40年11月。)

2014年現在の折本貝塚橋の様子


10000年前~7000年前の推測図  (引用:「新羽史」P9 より古鶴見湾図)
10000年前~7000年前の推測図 (引用:「新羽史」P9 より古鶴見湾図)

その後も、時折、貝殻・魚骨を捜しに、この周辺の畑を、"勝手”に掘り起こす探索者がいたそうです。

 

事実、今でも掘り起こせば、発見できるのではないでしょうか。 貝殻等を実際に畑の中から拾った経験・体験のある在住者は町内にまだまだ沢山いらっしゃいますので、初めてこの折本貝塚のことを知った方は、何かの折りにそういう在住者(工事開始から50年を経ていますので、皆さんご高齢になられております)からお聞きになってみては如何でしょうか。

 

ちなみに、4組の角田博様(83歳)からこの折本貝塚跡地が生まれた遙か1万年前の頃の生活情景が、私たちにも想像できるようにと、右図のような参考資料、新羽史編集委員会編の「新羽史」 (2004年発行・230クラブ出版社)に掲載されています「古鶴見湾図」を見せてもらいました。

現在の東京湾がこの折本町にまで食い込んでいる情景を鮮やかに思い浮かべることができると思います。

 

右図のブルーの色に染めているところは、折本HP編集部の方で、1万年前が海であったことをリアルに感じられるように視覚化したものです。なお、濃い方の青は、今現在の東京湾を示しています。


さらに、国を挙げてのこの貝塚発掘作業当時は、折本町内の場所を指す表現として、氷川・原・谷戸・淡島・上組・下組・一組・西原・東原などの名称がまだ「日常的」に使われていたようですので、その辺りの由来もお聴きするとおもしろい事でしょう。

 

淡島神社成り立ちの経過や、近辺の町に佐江戸と云う名称が有ることから、この折本(織本)が、江戸時代に生きていた当時の人たちの間では、江戸という地域の一部として認識されていたのかも知れないという事が伝えられているそうです。


246号江田駅~新横浜駅を結ぶ道路がその後開通されるに当たり、再度、考古学者・研究者・助手達が本格的に調査に入ったため、今度は弥生時代の居住跡が発見されました。そこから10組と5組をまたぐ橋は弥生橋と名付けられました。

 

その弥生時代の土器等が集中的に発見された場所は西原公園脇付近(旧折本小学校脇)で、縄文式の土器類が発見されたのは大熊町内だそうです。

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